2024年の夏は災害の夏です。まあ、今までもそんな傾向はありましたが、今年は特に酷い😖😖ですね。
台風、豪雨、酷暑、そして地震の四重苦。ちなみにこちら徳島県西部です。南海トラフ巨大地震がっつり震度7来ると言われている県ですが、山間部なので津波だけは心配ないです。でも家屋倒壊や山崩れは十分可能性あり。巨大地震注意が出されてからは、非常用持ち出し袋の中身チェックやお水などの買い足しを人並みに行いました。一人暮らしなので量は一般家庭より少なめで済みます。
なんかね、たぶん皆さんも同じだとは思うのですが、災害大国日本に住んでると、できる備えは努力するけど、もうあとは「来るときには来る!」と腹をくくるしかないんですよね。運を天に任せて、あとは祈ります。諦めるのとはちょっと違って覚悟を決めてる、というかね・・・。それでなきゃやっていけないです。だって日本全国、安全な場所も季節も予想できないんですから。
日本って、大昔からそうやって大地震や水害で倒壊した家を建て直し、復興を繰り返してきた国なんですよね。だから、集団行動や忍耐や、譲り合い、助け合いが身についている国民性だと思います。そこに希望を託して少しでも多くの人が生き延びてほしいですね。私自身は守る家族もないし、内心ここらでいいやって気持ちもあります。
最後に夏の暑さを乗り切る食べ物の画像を貼っておきますねぇ。冷たい冷や汁と鰻でーす。まだ2カ月は暑いです。みなさまご自愛くださいませ😃🎵
庭の手入れをしていた父が亡くなってから、毎年季節になると咲いていた花たちに変化が訪れたように感じます。理科の教師だった父は花はもちろん、雑草の名前も詳しくて、抜くべき草と育てるべき花の区別がきちんとついていたので、適切に刈り込んだり手入れしたりしていたのでしょうね。それに比べて私は咲いてくれるまでは花と雑草の区別がつかないものもあり・・・。きっと雑草と間違えて抜いたり除草剤をかけてしまったりしたのでしょう。春の花もなんとなく半分くらいに減ったような・・・。申し訳ない気持ちです。
それでも木瓜や水仙が今年も咲いてくれました。水仙は・・・本数が減りましたが。すこしお花の手入れの勉強もしてみようかと思う春でした。
白いネモフィラは、私が新しく植えました。
暖冬ですが、まだ寒の戻りはあるかもしれませんね。秋に植えたヴィオラたちもどんどん大きくなってきました。梅の満開はまだですが、庭にメジロたちが来る日も間近と思われます。
年明けからいろいろありました。ひとりの親族が、70代前半で心不全で突然逝きました。そしてもうひとり、私のひとつ年上の仲良しの従兄弟の膵臓がん末期が判明し、余命ニカ月を宣告されました。このふたつを知ったのはどちらも先週のこと。相次ぐ哀しい知らせに、さすがに食欲が失せました。
能登の地震もそうだけど、今日の平安な日が明日も問題なく続くとは限らない。大切な人に伝えそびれた言葉は、もしかしたらもう永遠に伝える機会が奪われるかもしれない。そんな心構えでいなくてはいけないのかなと思いました。
明日、従兄弟に会いに行ってきます。飛行機の距離ですけど。まだ顔を合わせることができるうちに。
6月1日の深夜に父が誤嚥性肺炎のため召天しました。
あとひと月で91歳の誕生日を迎える矢先の死でした。
脳梗塞を患い、要介護4になり施設での生活で、嚥下能力も落ちていたのでいつか誤嚥性の肺炎になるのではと心配していましたが、急遽入院してももう回復することなく、天に召されていきました。
喪主を務めた葬儀から1カ月半。いろんな名義の変更や母の遺族年金の申請や代表相続人としての手続を一人でこなし、後は家の相続と登記を残すのみとなりました。こちらは司法書士さんに頼る予定です。次々にやらねばならないことが山積みの時は感じる暇がなかった寂しさが襲ってくるようになりました。気が抜けると同時に夏風邪もひきました。
あと少し 頑張ります。
自宅で両親を介護してきましたが、この冬にどちらも入院を経て施設のお世話になることになりました。母の方は骨粗鬆症による背骨の圧迫骨折。父はあの1月末の大寒波の夜に入浴後に脳梗塞。母は要支援2で父は要介護4.介護度が違いすぎるので選択肢は有料のホームしかなく、幸い夫婦部屋が空いていた施設にお世話になることになりました。
ほぼ寝たきりで全介助の父はともかく、杖や歩行器なら歩ける母は自宅で看れないこともないと迷いはありましたが、父が入所するなら自分も同じ部屋にいたいと願う母の希望や、まだ離職するわけにはいかない私の事情や、ワンオペで介護するには限界があること、幸い二人分の施設費も年金や貯金でなんとか賄えるめどがついたことなどで決心しました。
入院するときはまさかもう帰ってこれないとは思わなかったであろう両親の、いろいろ残したものを見るにつけ切なさや寂しさも感じますが、24時間見守ってもらえる安心感はやはりありがたいことです。両親は89歳と91歳。晩年をできるだけ穏やかに過ごしてもらいたいです。
2023年 あけましておめでとうございます。
コロナ禍に突入してはや3年・・・。どこかでまさか自分はかからないだろうという、何の根拠もない自信があった私ですが、この年の暮れについにコロナに罹患してしまいました。世間はオミクロン株の第8波まっさかり。接触感染どころか空気感染するというこのウィルスは重症化こそ少ないものの、恐るべき感染力でいつだれがどこでかかってもおかしくない状態。
そんな中で私が発症したのは12月19日のことでした。正確にはその前日の夜から何となく喉が痛いような違和感を感じていましたが、19日の朝になってはっきりと喉の痛みと声の嗄れを感じました。発熱はありません。オミクロンは発症までが2~3日と短いらしいので、感染したのは15~17日あたりでしょうか。
いつどこで誰からなんて、もはや考えても仕方がないですがいくつか心当たりが。
①骨折と低血糖によるせん妄で母が入院し、総合病院に出入りしていた。
②職場でちらほら流行し始めていた。
③3年ぶりに大阪から姉が帰省していた。(これは後に検査した姉が陰性だったので除外)
④スーパー等の買い物(激込み)
19日の朝に声嗄れと喉の痛みが強くなり午後から倦怠感も出たので抗原検査を行いました。
無料検査をしてくれる薬局で受け、15分後には「陽性です。県のフォローアップセンターに陽性者登録を申請してください。」と言われ、キットの陽性写真をスマホで撮影。陽性登録するときの証明になるそうです。65歳未満で基礎疾患もない私のような者は保健所に伝える必要もなくフォローアップセンターで陽性と診断されたら希望すれば支援物資の配布やパルスオキシメーターの貸し出し等をしてもらえるということで、あとは自宅で市販薬を飲んで療養よろしくね、とのこと。
保健所業務や医療の逼迫を防ぐための措置とはいえ、この扱い(市販薬で自宅療養)で症状がキツかったらかなり不安だろうなと思いましたね。幸い私は発熱もなく息も苦しくなく、軽症であることはわかっていたのでパルスオキシメーターの貸し出しも支援物資も申し込まず、電話による健康診断だけ申し込みました。同居家族は高齢の両親のみ。88歳の母は入院中で在宅していないので安心ですが、90歳の父がいます。症状は出てないけど、炊事は私がしてるので感染の恐れは大です。ただ、普段から寝起きは別棟だしトイレも別だしお風呂も私が最後に入っていました。父は翌日指定された病院で濃厚接触者のPCR検査を受け、幸いにも陰性でした。やはりトイレやお風呂が別だったことと、食事中も無口な父はほとんどしゃべらなかったので黙食ができていたせいかと思われます。
陽性と診断されてすぐにドラッグストアで市販薬を買い込み療養に入りました。陽性者は7日間の療養を経て社会復帰できますが、10日間くらいは大事をとって他者に感染させないように気をつけなければいけません。軽症ではありましたが喉の痛みと咳は「ただの風邪」レベルではなくとてもキツかったですね。
1日目・・・微熱。激しい喉の痛み。倦怠感。
2日目・・・同上。
3日目・・・平熱。さらに激しい喉の痛み。咳。嗅覚が消える。
4日目・・・平熱。焼けつくような喉の痛み。激しい咳。嗅覚戻らず。
5日目・・・平熱。喉の痛みは和らぐ。激しい咳。嗅覚少し戻る。味覚が少し変化する。
6日目・・・平熱。喉の痛み消える。痰がからむ。咳も減る。鼻血。血痰(鼻血が混じった?)
7日目・・・平熱。咳が止まる。痰が残った感じ。嗅覚戻る。味覚はまだおかしい。
8日目・・・平熱。咳無し。痰はまだ少し残る。味覚だいぶ戻る。倦怠感は少し残る。
9日目から買い出しなどの最小限の外出に出るようになりました。倦怠感と痰が残る後遺症が心配ですし、体力が落ちて半日動くと半日は寝るといった生活が今も続いています。亜鉛のサプリを買って早めに飲み始めたせいか味覚障害は完治しました。年末年始で仕事も休めたことが助かりましたが4日からはまた出勤なのでしっかり体力を戻したいです。
療養期に無理をしたり、回復に適さない食生活をしたりすると後から後遺症がガツンとくるそうなので、今も食生活には気をつかっています。免疫を上げる食材をとり、アルコールや甘いものや脂っこいものは避けています。ファンケルさんのケールのポタージュは美味しくてお勧めですよ~~~。
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