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2016年2月の記事

2016年2月25日 (木)

あの日のように抱きしめて

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アウシュヴィッツから生還した妻と, 変貌した妻に気づかない夫。
奇しくも再会を果たしたふたりは, 再び愛を取り戻すことができるのか――。

これは,めっちゃ好きな設定の物語・・・・。ということでDVDリリースとともに鑑賞。

1945年6月ベルリン。顔に大怪我を負いながらも,強制収容所から奇跡的な生還を果たした元歌手のネリー。資産家の彼女の一族はホロコーストにより全滅し,彼女は親友のレネの庇護を受けながら,顔の再建手術を受ける。「違う顔にしたら身元を隠せますよ。」という医師の勧めを断って,ネリーは元の顔に戻してほしいと希望する。ピアニストだった夫のジョニーを探し出すことだけが彼女の願いだったから。

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レネは「ジョニーはあなたを裏切ったのよ」と告げるが,ネリーは夫がいそうな酒場を捜し歩き,ついにジョニーと再会するが,彼は妻だと気づいてくれない。それどころか,「死んだ妻に似ているから」という理由で,「収容所で亡くなった妻になりすましてくれ。妻の遺産を山分けしよう。」と持ちかける。「夫は本当に自分を愛していたのか、それとも裏切ったのか?」その答えを知りたいがために彼の提案を受け入れ,ネリーは自分自身の偽物を演じるが・・・。

監督は『東ベルリンから来た女』でベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)に輝いたクリスティアン・ペッツォルト。主演のニーナ・ホスも,相手役のロナルト・ツェアフェルも「東ベルリン~」の主演コンビだ。物語のキーとなる歌に,亡命作曲家クルト・ヴァイルの名曲「スピーク・ロウ」が使われ,「収容所のその後」を舞台にしたサスペンスフルな物語だ。
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ストーリーは少し無理がある。たとえば,一番変なのは,顔を再建したネリーに,夫以外の知り合いはみんなすぐにネリーだと気付くのに,なぜ一番親密だった夫がまったく気付かないのか?一番先に気づきそうなものだが,普通なら。それに,ネリーのほうも,夫が自分を密告していないと信じたいのはわかるとしても,「死んだ妻になりすまして遺産をだまし取ろう」なんて持ち掛けられた地点で,夫に愛想が尽きると思うけれど。

しかし,(後でわかるように)実際にユダヤ人である妻を密告した夫にとっては,生還した本物の妻とは会いたくなかったのだと思う。だって,自分が死の収容所に送り込んだ相手に会わす顔など,今さら無いに決まっているから。妻がまだ自分のことを愛して信じていればなおさらのこと。「妻は死んだ」と信じ込みたい彼の潜在意識が,実際のネリーを前にしても「これはネリーであるはずがない」と思わせたのかもしれない。
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計画の準備を着々と進めながらも,彼がネリーに対して不機嫌だったり苦々しい態度を取ったりしたのは,「妻に似ている」彼女を見たり思い出を探られたりするたびに,自分の罪を思い起こさせられて嫌だったのだろう。

戦争が起こる前,夫は妻を愛していたかもしれないけど・・・・
でもユダヤ人の妻を自分の命と引き換えにしてまで守り抜くことはできなかったのだ。
それは同情に値する。しかし,妻に似た女性が目の前に現れたら,遺産を狙う道具に使おうなどと考えつくところは全く同情の余地がない。本当に妻を愛していたけれど仕方なく裏切ってしまったのなら,絶対にそんな発想にはならないと思うから。こういう話を持ちかけられた地点で夫の不誠実さに気づけよ~と思うのだが,ネリーは夫との再会だけを生きがいに収容所生活も耐え抜いたわけで・・・・恋は盲目とはこのことだ。

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自分に気づいてほしい,それが無理ならせめて新しく愛してほしいと,縋るような思いで彼の申し出をすべて実行しようとするネリーが歯がゆい。友人たちの前での生還シーンを演出するために,夫は新しい赤いドレスとパリの靴を用意する。「収容所帰りの服装じゃないわ」と異を唱えるネリー。収容所の体験がどんなに苛酷なものだったか,少しも想像しようとしてくれない彼に苛立ったのだと思う。(ここでも,夫の愛のなさに気づけよ~と思った)

彼女を支えてきた親友のレネの自殺。そりゃ,同じユダヤ人のレネにとってはやりきれなかっただろう。彼女の自殺は,ホロコーストに対する怒りや祖国の再建よりも,裏切り者のドイツ人の夫との愛を取り戻すことを選んだネリーに対する抗議だったのか。レネが残した遺書によって,逮捕時には夫にすでに離婚されていた事実を知ったネリーは,初めて目がさめたのかもしれない。

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計画通りにうまく運んだ友人たちを交えての駅での生還シーン。
妻の生還を友人たちにうまく立証できて安堵の表情を浮かべる夫とは裏腹に,ネリーの顔には笑顔はない。そしてささやかな祝宴の後,彼女は夫に「伴奏して」と頼む。「スピーク・ロウを」・・・・・。戸惑いを隠せないままピアノに向かう夫。そりゃそうだろう。彼は自分が妻に仕立て上げた(と思っている)女が,まさか歌まで元歌手の妻と同じように歌えるとは思っていなかったのだと思う。

ここからが圧巻だ。
ネリーの歌声は最初はおずおずと弱々しく始まる。まるで独り言のつぶやきのように。夫の顔はますます心配そうになる。偽物であることが友人たちにバレるのでは,と思ったのかもしれない。ところが中盤にさしかかると,彼女の歌声は豹変する。力がみなぎり,高音が美しく響く。本来の歌声を取り戻したかのように。同時に表情までが,がらりと変わる。自信に満ち,もはやおどおどと,夫の心を探っていた彼女ではない。そしてドレスの腕を少したくし上げて,伴奏している夫の目に自分の収容所番号が触れるようにする。「私はネリー自身なのよ。」と彼女は歌声とその行動で告げたのだ。

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妻が生きていたこと,そして自分の裏切りも卑劣さも,すでに妻に露呈していることに気づいた夫は茫然自失の表情で固まる。妻は歌い終わると無言で立ち去る。今度こそ,永久に彼の元を去るために・・・だろう。切ないけれどカタルシスも感じるシーンだ。そうそう,こんな男のことは忘れて,人生を強く生きていってほしい。戦争さえなければ,壊れることのない愛だったかもしれないけれど,もはや元には戻るはずもない。

邦題がテーマと合ってない・・・「あの日のように抱きしめて」だなんて,そんなセンチな物語ではなかった。原題は「フェニックス」つまり「不死鳥」だ。これはネリーが夫を見つけた酒場の名前でもあるが,ラストシーン,裏切り者の夫から決然と去っていくネリー自身が「不死鳥」なのではないかと感じた。

2016年2月19日 (金)

雪の轍

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愛すること,赦すこと
もがきながらも探し続ける魂の雪解け

トルコの巨匠ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督による,カッパドキアを舞台にした対話中心の重厚なヒューマンドラマ。退屈かな?と思いながらDVD鑑賞したら,3時間を超える長尺にも関わらず,最後まで見入ってしまった。やはりカンヌでパルムドールを受賞しただけのことはある。

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カッパドキアで洞窟ホテルを営むアイドゥン(ハルク・ビルギネル)は、地元の名士。ホテルの他にも所有している店舗や家の管理は弁護士や使用人に任せ,自らは地元新聞にエッセイを掲載し,いずれは自分の体験を活かした本の執筆を目指している。彼の若く美しい妻ニハル(メリサ・ソゼン)は裕福な夫に養われる無為な生活の中で唯一,夫の資産をあてにした慈善活動を生き甲斐にして暮らしている。そして彼らの家には,離婚して実家に帰ってきている妹のネジラ(デメット・アクバァ)も同居していた。
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平穏に過ぎていくかのように見える日々。
しかし,アイドゥンが貸していた家の家賃を滞納したイスマイル一家との確執をきっかけに,彼ら家族の間には波風が立ち始める。家具を差し押さえられ,アイドゥンに反発するイスマイル(ネジャット・イシレル)と彼の息子。実際にとり立てたり差し押さえたりする行動は人まかせのせいか,彼らには無関心に近い傲慢な感情を持つアイドゥン。そんな彼の行動さらには彼の文才までを批判し始める妹のネジラ。それどころか,妻のニハルもまた,これまでの「籠の鳥状態」の鬱憤を夫にぶつけ始め,夫婦の間には溝が深まっていく。

アイドゥン対ネジラ。そしてアイドゥン対ニハル。ニハル対ネジラ。
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この三人の口論は,誰もが互いに決して譲らず歩み寄らず,「そこまで言うか」と呆れるくらい,相手の弱いところを延々と攻撃し続ける。日本人なら,ここまで相手を言葉だけで追い詰めたりはしないだろうと思われるストレートさと執拗さ。そして,勝ち負けの決まらない口論や対話を通して,登場人物それぞれが抱えている問題や暗部が露わにされていく。・・・・一言でいえば「あなたのそういうところが我慢できない」「お前こそ何様だ」という本音を相手にぶつけ始めたというところだろうか。閉ざされた空間での自我のぶつかり合いが醸し出す緊張感は半端ない。

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相手を攻撃し,弱いところを突く手段は何も言葉だけとは限らない。イスマイル親子のアイドゥン夫婦に対する無言の抗議や拒絶もなかなかなものだ。息子は投石や批判的なまなざしによって。そして父親のイスマイルは,ニハルから施された札束を彼女の眼の前で暖炉に投げ込む(これは強烈)という行為によって。

互いに衝突と非難を繰り返す人々。

富める者と貧しいもの,老いたものと若い者,
財力のある男性と,養われるだけの女性,
そして神を信じるものと信じないもの・・・・


彼らの間に横たわる溝や恨みが消えることはないのだろうか。
この物語には,善人も悪人も存在せず,誰もが持ち合わせている弱さや浅ましさが,置かれた立場によって生じたにすぎないかのように思える。結局人間とは,立場の違う者どうしが完全に理解し合うことができない生き物なのだろうか。相容れない孤独さを抱えて生きるしかないのか。家族であってもかつて愛し合った相手であっても・・・・。

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いやいや,きっと普段はみんな本音の一番きついところは隠して,互いに折り合いをつけながら共存しているはずなのだ。それを可能にするのが,人間の理性だったり常識だったり,相手への思いやりや愛情だったり,微妙な力関係だったりするのではないか。そして人間は複雑な生き物だから,同じ相手に対して愛情も憎しみも同時に抱くこともできる。自分と近い関係であればあるほど,逃れられないゆえに,相手に愛情と憎しみという相反する感情を抱く場合もあるだろう。常日頃言いたいことを我慢している関係ならなおさら。

この物語では,凍てついた冬のカッパドキアを舞台に,図らずもむき出しの本音が露呈された人たちの争いをあえて描いたのかもしれない。観ているこちらは,心がキリキリと痛むけれど,ここまで歯に衣を着せないやり取りを「わかる…一度でいいから言ってみたい、わたしも」と共感してしまう部分もある。チェーホフの短編が基になっているそうなのでそちらも読んでみたいような・・・・。
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人間関係のはっきりとした修復は最後まで描かれないけれど,ラストでほんの少し,雪解けの兆しのような場面が見られることが,救いになっている。アイドゥン夫婦の間には,これから少しでも互いに思いやりや歩み寄りが見られるようになるのだろうか。

人間について,人生について嫌でも考えさせられる哲学的な作品だ。・・・ただただ深い。

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