ダメージ
1992年の作品だが,何度も見直している好きな作品だ。
今より断然若いジェレミー・アイアンズが素敵。
監督は,「恋人たち」のルイ・マル。主人公は大臣の椅子を約束されていた英国下院議員スティーブン(アイアンズ)。愛する家族に囲まれ,上流階級社会で何一つ不満もなく幸せに暮らす彼の前に,突然現れたミステリアスな女性アンナ(ジュリエット・ビノシュ)。ひと目見たときからアンナに強く惹かれたスティーヴンは,彼女の誘いを受け,言葉を交わすのも惜しむように激しく愛し合う。しかし彼女はあろうことか,スティーヴンの息子マーティンのフィアンセだった。
不倫の恋に陥った初老の男の悲劇を描いた作品だ。それも失うものが大きい立場であるにも関わらず,究極の背徳の罪を犯してしまう男の物語。分別盛りの年齢で,それまで自分の人生をソツなく完璧にコントロールしてきたはずの彼が,抗いようのない理屈抜きの情念に翻弄されてしまう。人生の秋に差し掛かってから体験する本気の恋が,いかに中年男の理性も分別も狂わせるか・・・・ある意味,恐ろしほど切なく苦い物語である。
冒頭の,いかにも上流階級の紳士然とした彼も,アンナの虜になって取り乱したり苦悩したりする彼も,ラストのすべてを失ってなお,後悔していないようにさえ見える悟りきったような静かな表情の彼も・・・・・。一人の人間の中に住んでいる,思いもよらないもう一つの自分。そして自分でも制御のできない感情の苦しさ・・・そんな難しい感情を表情の演技で上手く表していた。
スノッブで冷静なたたずまいの彼が,恋に苦しむ青年のように切なく辛そうな眼差しを垣間見せる表情が素晴らしい。そして,やっぱり感じたことは,このひとのスタイルのよさ,姿勢の良さ。仕立ての良いスーツやコートはもちろんのこと,上質なセーターやジャケットも,何を着ても素敵だけれど,とくに肩や背中のラインが洗練された彫像のように完璧なのだ。
息子や妻を裏切ってまでも彼を激情の虜にしたファム・ファタールを演じているのはジュリエット・ビノシュ。彼女が演じたアンナという女性は,同性の私から見ても,危険で理解不能なキャラクターだ。
彼女はいったい誰を本当に愛しているのか?そもそも本気で誰かを愛せる女性なのか?すべてを受け入れるようでいて,決して自分の心の奥深くへは誰も入れないような・・・そんな矛盾した魅力を持つアンナ。愛に対して貪欲でそのくせ冷めていて・・・愛する相手を破滅させるか傷つけるか・・・たとえ望まなくても,アンナはそのどちらしかできないタイプの女性なのかもしれない。
スティーヴンはなぜ,悲劇が起こるまで,立ち止まることも引き返すこともできなかったのか?その理由は,きっと彼本人にも説明がつかなかっただろう。彼にとってこの恋は,まるで熱病に冒されたような,あるいは避けられない天災に見舞われたようなものだったのかもしれない。
ひたむきな彼の眼差しを冷静に見つめ返すアンナの「こんなこと,(あなたにとっては)初めてなのね。」という台詞や,発覚の悲劇の後に,妻のイングリットから発せられた,「なぜ関係ができたときに死ななかったのよ?」という台詞が印象的だった。
結局はこの上ないほどのダメージを受けて,地位も家庭もすべてを失ったスティーヴン。そしてアンナは,彼女を受け入れ庇護する幼馴染の男性の元へと去る。
ラスト,侘しい一人住まいの部屋で,アンナと息子と自分の写真を眺めるスティーヴン。「あれから一度だけ彼女を見かけた・・・・ごく普通の女だった。」という独白。彼にとって,当時の彼女の魔力はもうすでに色褪せたのだろうか。それでも,パネルの彼女の顔を見つめるスティーヴンの眼差しには,まだアンナへの愛情が存在しているように思えた。
愛に翻弄される人間の愚かしさと,このような愛の持つ破壊力の大きさを,容赦なく描いた物語だ。それでもどうしようもなく愛してしまい,後悔もできないのが・・・弱い人間の性なのかもしれない。
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