牛の鈴音
韓国で300万人を泣かせたという,新人監督が撮った奇跡のドキュメンタリー映画である。ドキュメンタリー作品がウケない韓国で,わずか7館の上映からスタートしたにもかかわらず,口コミが広がり,「牛の鈴症候群」という社会現象まで引き起こしたという。
作品は,冒頭からラストまでチェ老夫妻と老いた牝牛の日常を淡々と綴っていく。平均寿命が15年ほどにもかかわらず,40年も生きたチェ爺さんの牝牛は,その生涯の30年間を老人のために畑を耕し,重い荷を積んだ牛車を黙々と引いてきた。
何度もスクリーンに登場する牛のアップ。
どちらかというと不細工な毛むくじゃらの顔にも,よごれた毛に覆われた老いた身体にも,長年の苦労がくっきりと刻まれているが,その表情は,まるで悟りきったかのような静かさをたたえている。
79歳というチェ爺さんもまた老いの点では牛に負けていない。若い時から足が悪かったお爺さんの腰は曲がり,足の指は変形し,時々酷い頭痛に悩まされながらも,現代的な農機具を一切使わず,牛と己の力のみを頼りに,まるではいつくばるようにして黙々と野良仕事をこなす。
60年もお爺さんに連れ添って共に重労働をしてきたお婆さんは,そんなお爺さんのやり方が不満で,畑仕事の合間にいつも愚痴をこぼしている。
牛が食べる草にかかるといけないからといって農薬を使わず,売っている飼料も利用せず,手ずから牛の餌用の草を刈るお爺さん。畑に行くときはもちろん,町に行く時も牛車しか使わないお爺さん。牛が疲れてくるとお婆さんに「降りろ」というお爺さん。
わたしと牛とどっちが大切なんだい。やってられないよ,こんなに苦労させられて。わたしほと不幸なものはいないよ。・・・・・果てしなく続くお婆さんの愚痴と,それを顔色一つ変えずにやり過ごすお爺さん。
何のナレーションもない静かなこの作品。
絶え間ないお婆さんの愚痴がナレーションの役割を果たし,牛の首につけられた澄んだ鈴の音をBGMに,チェ爺さん夫婦と牛の日常は,ひたすら淡々と過ぎていく。
観ていると,これがドキュメンタリーであることを忘れそうになってくる。まるで素朴なドラマのような味わいがあるのだ。チェ爺さんもお婆さんも,実在の人物ではなく,老練な役者に見えてくるから不思議である。
チェ爺さんと牛との,夫婦か親子のように強い絆にやきもちを焼くお婆さん。牛が雌であるから余計に,三角関係のような不思議な錯覚が起こる。不満そうなお婆さんの表情のすぐ後に,それをじーっと黙ってみている牛の顔のアップなんぞが映るもんだから,余計に。
牛とお爺さんの関係は,単なる主従関係ではなく,どちらも相手に尽くし合っている,ともいえる関係だ。老いた体に鞭打って,倒れて動けなくなるその朝まで,一日も休まずに働き続けた牛のために,お爺さんも手間を惜しまず飼料の草を刈り続ける。身体が楽になるように機械耕作にシフトすればよいものを,頑としてしなかったのも,本音は牛の居場所を無くしたくなかったためではないだろうか。
お爺さんも牛も,互いの存在が生き甲斐でもあると同時に,重荷にもなっている・・・・それはまさに,血を分けたもの同士のの関係のようだ。
売られるために牛市場に連れて行かれる牛が涙を流す場面。そしていよいよ動けなくなって息を引き取るその朝になって,ようやく外される鼻環。あんなに悪態をついていたお婆さんが,「まだ(逝くのは)早いよ」と言って泣く場面。牛のお墓注がれるマッコリ。泣くまいと思っても,やはり涙がこみ上げてきた。切ないのでも悲しいのでもなく,心の深いところから静かに湧いてくる涙だ。
韓国というのはほんとに奥の深い国だ。今の時代にまだこんなお爺さんやお婆さんがいて,そしてこんな牛とのドラマがあって。それをこんな形でドキュメンタリー作品に仕上げることのできる新人監督がいて。この作品が韓国で社会現象を巻き起こした,というのも納得だった。不思議な感動に出会えた作品だった。
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