ブロークバックマウンテン(6)
それぞれの妻たち
考えてみれば,ブロークバックマウンテンは イニスとジャックだけでなく,主要登場人物の大半が,辛い思いをする物語だ。安易な救いは誰にも用意されていない。だからこそ
この物語からは深いリアリズムを感じるのかもしれない。そう,まるで彼らが,実際に存在していたかのように。
この映画は,登場人物のそれぞれの感情のこまやかな動きが,すごく丁寧に描かれているので,主役以外の人物にも,深く感情移入できるつくりになっている。そして,観客が誰に感情移入するかで,この物語の印象は大きく変わってくるはずだ。
彼ら二人の妻の立場に立ってみれば,イニスとジャックの愛は到底許されるものではないのだから。徹頭徹尾,イニスたちの立場にたって鑑賞した私でさえも,彼女たちの苦悩や哀しみの大きさには,胸が痛んだ。
イニスの妻のアルマ
夫とジャックの抱擁を目撃した時の衝撃は,どれほど大きかったことか。まるで足下の地面が, ガラガラと音たてて崩れ去るくらいショックだったろう。それから何年間もの間, いそいそとジャックに逢いに出かける夫を見送るたびに,ため込んだ怒りは,アルマの心を浸食していった。
後にイニスに見切りをつけた彼女は,スーパーの店主と再婚し,裕福な生活を手に入れるが,感謝祭のディナーの後で,ついに積年の恨みつらみをイニスに激しくぶちまける。そうせずにはおれないほど,彼女の心の傷は深く,癒えることはなかったのだろう。
ジャックの妻のラリーン
彼女はいったい,真実をどれくらい知っていたのだろう。あえて夫に問いただすことは,彼女のプライドが許さなかったのかもしれない。それでも彼女は気づいていたはずだ。おとなしく優しい夫の心の中には,妻の自分が決して入ることができない秘密の場所があることを。そして年月を重ねるごとに,ジャック夫婦の間には,たとえ諍いはなくても,冷え冷えとしたものが漂いはじめる。
少なくともラリーンはジャックをずっと愛していたと思う。ジャックの方は,イニスさえ同意すれば家庭を捨てる覚悟をしていたのに。ラリーンの髪型や化粧がどんどん派手になっていったのは,夫に振り向いてもらえない寂しさの表れのように思えた。
ジャックの訃報を電話でイニスに告げた時,ラリーンは,かつて夫から聞かされていた彼にとっての桃源郷「ブロークバックマウンテン」が実在し,受話器の向こうの相手こそが夫が長年秘めてきた恋人であることを知る。
気丈な彼女の瞳に一瞬さっと浮かんだ涙。彼女は夫をこのとき初めて,完全に理解したのだろう。涙の意味は,怒りなのか,哀しみなのか。私には,ジャックに対する憐れみのようにも感じられた。
誰も悪くないのに。
みな,それぞれささやかな幸せを願って
精一杯生きてきたのに。
イニスとジャックが結婚したことが悪い,という意見もあるだろうけれど。あの時代,いつまでも独りでいることは,世間から奇異の目でみられ,それもまたホモフォビアからの攻撃のターゲットになっていただろうから,彼らが生きるためには,他に方法がなかったと思う。時代や環境が生んだ,避けることのできない悲劇とはわかっていても,傷つけあってしまった彼らの運命は本当に切ない。
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さすがBBMのスペシャリスト、目の付け所が鋭い!
ほんと、誰も悪い人はいないのに、皆不幸を味わってしまって・・・
そもそも、どうしてイニスとジャックは家庭を持ったのか、疑問に思っていました。
そうかぁ、一人でいることで、ゲイだと疑われてしまう風潮だったんだ。
映画を見るときは、時代背景を考慮しないといけませんね。
イニスは幼い頃の記憶から、ゲイ差別の恐ろしさを知っていただけに
結婚せざるをえなかったとは。。とっても切ないぞ。感情移入しまくりです。
投稿: マーちゃん | 2007年9月 2日 (日) 22時37分
マーちゃんへ
そうなんですよねー。この時代,この国のこの地域って,「イージーライダー」思い出すでしょ?あの映画でも「あいつらホモだぜ。国境で襲って殺そうぜ」なんて言われてましたね。たしか。
警察は何をしてたんや!と怒りを感じてしまいます。イニスが目撃した,ゲイの男性のリンチ死体の凄惨さを思うと,実際に疚しいこと(こういう表現はアレですが)をしていた彼らとしては,保身のために結婚したのも仕方ないと思います。それに、イニスもジャックも,山を降りた地点で,二人の関係は終わったと思っていましたからね。当初は。
まさかその4年後にまた関係が再燃するとは予測できずに結婚したのでしょう。
ジャックはロデオ競技で日銭をかせぐ,根無し草のような生活で,実家にも帰れないし,(父と折り合いが悪い)ロデオもいつまでも体が持たないし,生活のために,愛してないラリーンとの逆玉にのったふしもあります。
二人とも,人より強い人間でもなんでもない,ごく普通の貧しい若者ですからね。彼らの取った行動は,責められないと思います。ね,こう考えるとあまりにもリアルで,そこがまた切ないでしょ。
投稿: なな | 2007年9月 3日 (月) 00時13分
ななさま、こんにちは。拙記事にTBありがとうございました。
結婚当時、彼ら(とりわけイニス)には「保身」という意識さえなかったと思います。
ジャックは、山を降りて一年後にアギーレの元を訪れた時点では、イニスを(イニスとの再会を)諦めてないですよね。
イニスも、「終わった」と思おうとしていただけで、身も心もジャックを求めていました。
ラリーンとの出会いはジャックにとって「渡りに船」だったのでしょうが、ジャックが彼女を「気に入った」ことは間違いないですよね。
アルマに対して、イニスも愛しさは感じていたと思います。少なくとも結婚当初は。
うまくまとまりませんが、誰も悪くないと私も思います。誰も責めたくはないです。
投稿: 真紅 | 2007年9月 3日 (月) 05時07分
真紅さま コメントとTBをありがとうございます。
そうですね。おっしゃる通り,彼らの意識の中では,「保身」という自覚はなかったでしょうね。特にイニスは自分をゲイだとは思っていなかったし。
ジャックはラリーンのリーダーシップに惹かれたのかもしれませんね。そしてラリーンはジャックの優しさに。彼らは性格的には相性がぴったりだったと思います。ジャックがイニスを愛してなかったら,そして彼をいびる舅などの存在がなかったら,実は理想的な夫婦になっていたのかもしれません。
二人とも,妻を「利用しよう」とか,「傷つけよう」と思って結婚したわけじゃないですね。
映画が封切られた当時,この物語に対し「結婚は,神聖なもの。ゲイなら女性と結婚するな,結婚してしまったのなら,ゲイをやめたらいいのに」という感想を目にしましたが,決してそんなに簡単に割り切れるものではないのに・・・。と思ったものです。でも,妻たちに感情移入した場合は,そういう感想を持つかもです。妻たちの苦悩や許せない思いも,十分すぎるほど描かれていて,よくわかりましたから。ほんとに誰も悪くないけど・・・人生ってままならないですね。
投稿: なな | 2007年9月 3日 (月) 07時22分