ブロークバックマウンテン(5)
彼らの愛を阻むもの
前回は,ジャックとイニスが「ソウルメイト」だったことについて書いたけれど。この二人についてあらためて思い返してみると,相思相愛で,肉体的なつながりもあったくせに,彼らは実に20年もの間 本当の意味では,「互いに胸のうちをさらけ出せなかった」 恋人たちだったことに気がついた。
あの最後の逢瀬でのいさかい。
もしかしたら あの時はじめて二人が,というよりジャックが,長い間胸の中に溜めていた本音を,やっと吐き出せたのだろう。「一度しか言わないからよく聞け 」ジャックの口から絞り出される血を吐くような叫び。
お前はわかっちゃいない。俺がどんなに辛いか。
お前が拒んだから,
俺たちにはブロークバックマウンテンしかない。
・・・冬に間欠泉から噴出する蒸気が巨大な雲を作るように,この歳月の間に言わずにいて,今も口に出せないことが,二人の周囲にもくもくとわき上がった。告白すること,態度をはっきりさせること,いたたまれない気持ち,罪悪感,恐怖。 (原作より)
このシーンは何度観ても,胸がつぶれる思いがする。愛し合う者どうしの本能で,多くを語り合わなくても,彼らは相手を理解していたかもしれない。そして自分にはない相手の個性を,互いに慈しみ,慕っていただろう。
しかしそれでも,男どうしが愛し合うことに関して彼らがそれぞれに抱いていた価値観は,最初から大きくずれていて,その温度差はジャックがこの世を去るまで,縮まることはなかったのだ。
荒々しいのに繊細で,歯がゆくなるくらい臆病で,無愛想なくせに,芯にあたたかさを秘めていて,時には,驚くほど激しく感情を爆発させる自己矛盾の固まりのようなイニス。愛するということがどんなものか,それまで考えたこともなかったイニス。
そんなイニスが,生まれて初めてジャックを愛した時,自分がどのような感情に襲われ,どのような行動をとってしまうか,イニス本人にもきっと予測がつかなかっただろう。刷り込まれたホモフォビアの考えと,どうしようもなくジャックを求める気持ちに哀れにも 引き裂かれつづけた心。
それに対して,イニスに比べると,その時代には珍しく,自分の気持ちに正直に生きたいという望みをもっていたジャック。彼の中にももちろん,本能的な保身の考えはあって,アギーレの発覚を知ったときは,彼なりにおびえただろうし,世間の目をくらますための結婚も,あっさりやってのけたけれど,イニスの決心さえつけばいつだって,全てを捨てて彼と生きる覚悟を決めていたはずだ。
だからこそ,彼はイニスの離婚の知らせを聞いて,まるで飛び立つ鳥のように喜び勇んで駆けつけたのだ。このときのすれ違いはほんとうに痛々しい。通り過ぎる車の影にもおびえるイニスを見て,ジャックはこの時,イニスが抱えているトラウマの大きさを思い知らされ,自分の夢がこの先も実現しそうもないという予感に絶望する。
この二人の間に20年間立ちはだかり続けたのは,同性愛を断罪する狭量な社会だけではないのだろう。ジャックとイニスを隔てるものは,彼らの外だけに存在したのではなく,彼ら自身の心の中にも存在したのだ。
彼ら二人の,価値観の決定的な違い。
それは,互いににうすうす気づいていながらも,あえて議論することを避け,できるだけ目をそらしてきた,愛し合うことへの罪の意識の違い。
イニスへの愛を苦しみつつも肯定していたジャックと,ジャックへの愛を自分の中で認めることができなかったイニス。二人にとって一緒に生きることがどれほど必要で大切であるかちゃんとわかっていたジャックと,ジャックを愛しながらもそんな自分を負け犬であると自己嫌悪にさいなまれていたイニス。
自分が何を本当に求めているか 何が一番必要なものなのかイニスが長い間見失っていたものの重さと,見失わせる原因となったものについて繰り返し 繰り返し 考えずにはいられない。
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» 映画「ブロークバック・マウンテン」 [茸茶の想い ∞ ~祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり~]
原題:Brokeback Mountain
アメリカ西部ワイオミングのブロークバック・マウンテンでの二人の男の運命的な出会いから20余年の友情を越えた禁断の愛の哀しい物語・・・。
寡黙なイニス・デル・マー(ヒース・レジャー)と、おどけたジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)は... [続きを読む]
なるほどねぇ。同性愛への差別意識は彼ら自身も持っていた。
ただし、その意識はイニスの方が強かったということですね。
性的嗜好は、その人の特性でしかない「利き手」と同じようなもの・・・
なのですって。でも、そんなに簡単に割り切れるものではありませんよね。
投稿: マーちゃん | 2007年8月25日 (土) 21時04分
マーちゃんへ
イニスは,幼少の頃に父親から見せられたゲイの男性のリンチ死体のトラウマから,同性愛イコール死という観念から抜け出せなかったのでしょうね。そしてそれまで異性愛者だと思っていた自分がジャックと関係を持ってしまったとき,そんな自分を受け入れるというか,認める,ということができなかったのですね。
それがイニスにとっては重荷であったし,愛をはっきり言葉で告げてもらえなかったジャックにとっても,辛いことだったと思います。離れて過ごした年月の辛さもさることながら,ね。
社会がこんなに同性愛を異常なものとして偏見で見なかったら,もっと割り切れると思いますが。今でも,同性愛者を悪い疾患のようにとらえている人はいますが,怒りを感じますね。
投稿: なな | 2007年8月25日 (土) 22時17分
はじめまして、こんにちわ。
先日wowowで初めてこの作品を観ました。
元々、原作者のアニー・プルーのファンで、とても楽しみにしていましたが、素晴らしい作品にしあがっていて満足できました。
おっしゃるように、二人の関係は「互いに胸のうちをさらけ出せなかった」ままだったんですよね、あの最後のいさかいまでは。
それはイニスの気質によるものかもしれませんね、あのブロークバックマウンテンの夏でさえも、心を開いて自分のことを話すのに時間がかかったくらい、寡黙なイニスだったから。
このイニスとジャックの気質のギャップ、そして同性愛に対する意識のギャップ、二人の温度差が二人の大きな隔たりになっていたのでしょうね。その果ての結末が切なく(そこに愛があっただけに)、しかし、イニスがジャックを愛し続けていく姿が愛おしく、とても深い作品だったなと思いました。
トラバさせてくださいね。
投稿: はざくら | 2007年11月 4日 (日) 12時12分
はざくらさん,はじめまして。ご訪問ありがとうございます。(TBも)
wowowでご覧になったのですね。プルーの作品のファン,ということはシッピング・ニュースなどもお好きでしょうね。彼女の小説は,力強く,荒削りな美しさがとても魅力的ですが,この「ブロークバック」は,その中でも奇跡的な傑作だと思います。
イニスとジャックの二人の生前のすれ違う愛,そしてすれ違ってもなお,厳然とそこに存在し続ける愛の悲しさにいつも圧倒され,泣かされました。イニスから告白されずに絶望の中で死んでいったジャックと,愛に気づいた時は,すでに相手がこの世にいなかったイニスと,どちらがより可哀想か,なんて誰にもわからないことだけど,ジャックの魂とともに孤独に生きていかなければならないイニスの人生は,いかにも切ないですね。
今でもイニスがジャックを想って,ワイオミングの大地でトレーラー暮らしをひっそりと続けている気がします。
投稿: なな | 2007年11月 4日 (日) 21時44分
お久しぶりです。ななさん。
急にこの映画のあるシーンを思い出してしまいました。
というのは「つぐない」を見に行ったんですよ。
そして、ジャックがイニスにいい放った、
「俺達にはブロークバックマウンテンしかない」というのと、
同じような台詞がでてくるのです。
その時、私は、「つぐない」の2人のことと共に、
ジャックとイニスを想い出し、自然に涙がこぼれました。
実はまだ、この作品見直せてないのです。
いずれゆっくり見直そうと思っています。
突然失礼いたしました。
投稿: はざくら | 2008年7月 1日 (火) 14時03分
はざくらさん こちらこそお久しぶりです。
お越しいただいて,(それもBBMの部屋に)とっても嬉しいです。
「つぐない」ご覧になったんですね。
私は劇場で観れずに,きっとDVD待ちだと思ってますが
ぜひ観たい作品の一つです。
BBMに似た切なさがあると聞いて,ますます見たくなりました。
「俺達には,ブロークバックマウンテンしかない!」というジャックの叫びは
何度思い返しても悲痛で,可哀そうでたまりません。
ジャックにとっては,最愛のイニスをただ一度だけ責めるために使った言葉。
そしてイニスにとっては「泣きどころ」のセリフです。あまりにも核心をついていたから。
私も,日頃記事のアップに追われていましたが,久々に再見したくなりました,BBM。
ヒースが天に召された今となっては,また感想も別の思いが混じるのですが
またふたたび登山して,あの二人に逢いたくなりました・・・。
投稿: なな | 2008年7月 1日 (火) 22時21分